水軍の将九鬼嘉隆の勝運と自然力を獲得する希望の丘
水軍の将九鬼嘉隆の胴塚から、首塚へとつづく
関ヶ原の戦いに参戦した九鬼嘉隆。自分は西軍へ、子どもの守隆は東軍へ。どちらが負けても家名が存続するようにとの戦略をもっての参戦でした。その九鬼嘉隆公から勇気と勝運をもらい「負けない、行けるぞ」という自信と希望を示す道。
見所:戦国武将九鬼嘉隆の胴塚、首塚、血洗い池、築城岬と希望の丘
九鬼水軍・九鬼嘉隆 (くきよしたか)
戦国時代から安土桃山時代にかけ、九鬼水軍を率いた武将で、九鬼氏の第8 代当主。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長や豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、3 万5千石の禄を得ました。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとりました。関ヶ原の戦いで西軍につき、敗れて答志島で自害しました。
島には首塚、胴塚として葬られています。